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JJの気まぐれブログ

テリヤキ屋さんのオーナーになってしまった話し

どこかで聞いたことがあるが、人生の大半は、生まれた場所と親で決まるらしい。確かにもしかするとそうなのかもしれない。あまりブログで書いたことはないが、僕のお父さんはかなりクレイジーな人だ。良い意味でも悪い意味でも。今回は近況報告も兼ねて、自分が今置かれている状況をおさらいしたい。

 

~体力おばけのお父さん~

僕のお父さんは1971年生まれの52歳で、出身は韓国の田舎の方だ。貧しかったこともあり、僕にとっては祖父母であるお父さんの親は、あまり子供のケアをしてあげられなかったらしい。その代わりに、二人の姉がお父さんの面倒を見てあげていたそう。そんな環境ながらも勉強はとても頑張ったらしく、大学は地方の国立に入った。一流企業への就職も決まり、20代中盤でお母さんと結婚し僕も生まれた。だが、当時の会社は学歴主義の影響が色濃く、有名大学でなかったお父さんへの扱いはあまり良くなかった。その不公平さを始めとする韓国社会に嫌気が差し、慶應大学の大学院に留学する形で日本に来た。

お母さんとは言うと、比較的裕福な家庭出身で、結婚した当初から韓国で良い暮らしをするつもりだったそうだが、お父さんの強い要望で僕が5歳の時に日本に移住することとなった。日本での最初の頃はお金もなく、かなり苦労していたのは小学生の僕にもわかるほどだった。お父さんは研究にバイト、お母さんも日本語も喋れない中アルバイトをして生活費を稼いでいた。僕はまだ脳が柔らかかったこともあり、特に記憶もないまま韓国語と日本語のバイリンガルになって、学校でも普通に友達を作れた。

最初の数年こそ住んでいたアパートは狭かったものの、そこからはお父さんの頑張りもあり、引っ越しをする度に部屋のサイズが大きくなり、僕が小学5年生に上がった時には一軒家に移った。その数年後に、お父さんは当時はまだ世間に知られてもいなかったアマゾンに転職をした。会社はみるみる大きくなり、初期メンバーだったお父さんの当時の株のボーナスは後になんと最大40倍にまで膨れ上がった。

そして僕の高校卒業と共にお父さんは渡米することになり、ついでに家まで買って家族二度目の国際移住をすることになる。僕は慶應大学に入学し、一人暮らしを始めていたため、そのまま日本に残ることもできたが、キャリアを考えるとシアトルの方が良さそうだなと思い、結局1年後に合流することに。アマゾンという大企業のバックアップに加え、お父さんの会社でのポジションが高かったこともあり、グリーンカードアメリカの永住権)はなんと僕が渡米して1年半もしないうちに取れてしまった。日本では永住権を取るまで10年強かかったが、一度の人生で、2カ国で家族全員分の永住権を取得してしまうお父さんの凄さに気づいたのは最近になってからのことだ。

シアトルに来てからはなんと仕事で特許も取った。僕はエンジニアのバックグラウンドがないので全く理解できなかったが、そのアイディアのおかげで会社の利益がかなり増える大手柄を成し遂げたらしい。だが、大企業ではそんなことをしても搾取されるだけだ。そのことに嫌気が差したお父さんはなんとスッパリとアマゾンをやめてしまった。そして日本に一時帰国し寿司の学校に通った。卒業してからは銀座の高級寿司屋で修行をした。一年後シアトルに戻ってきてからは、複数の日本食レストランで働き、知らないうちに日系サンドイッチ屋さんの共同オーナーになって、アマゾンで稼いだ時並みの年収を稼ぐように。

そのお店はかなり売上もよく、少し待てば2号店を開けるタイミングでお父さんがオーナーになれるだろう。だが、これまたいつの間にかテリヤキ屋さん(日本でいうお弁当屋さん)を買収し、お母さん名義でサインした。そこまでは良かったのだが、お母さんは英語がほとんど話せない。そんなこともあり、お父さんに、テリヤキ屋さんの経営はジュン(僕の家での呼び名)に任せたいと急に伝えられた。それが伝えられたのは先月のことで、お店は今週からオーナーシップが変わった。

と、ここまでお父さんの経歴を簡単に書いたが、一番重要な部分を略している。それは、彼はえげつないほどの体力を持っていること。学生時代も登校は全校生徒で1番早く、軍隊にいた時もその体力ゆえに、RTCというトップチームに配属されていたらしい。そしてサラリーマン時代も3時間睡眠で朝5時に家を出て、残業・飲み会をして帰ってくるのは終電という生活。50歳になってからも衰えはなく、飲食業界に足を踏み入れてからは、軽く週80時間を超える労働をしている。どんなに仕事をしても、数時間仮眠を取れば疲れが取れるようで、サンドイッチ屋さんでは朝2時から働いている。

それに加え、リスクを取ることにも物怖じしないタイプで、アマゾンを辞めてから、これまで貯めてきたアマゾン株を数年前に半分売り払って、そのお金をNVIDIA株にオールインしていた。途中落ちた時期も笑いながら、「ジュン今マイナス30%笑笑」と余裕をかましていて、実親ながら頭おかしいのかとも思ったが、今ではプラス30%と好転している。考えてみれば、それくらい狂っていないと、人生で二度も海外移住をして永住権取得なんてことはできないだろう。

 

~僕の現状~

まあこんな体力お化けなお父さんを持つと、子の立場は少々辛くもある。僕は今まで周りの同世代に比べると、努力量は多い方だと思って生きてきた。学生時代も勉強は頑張ったし、留学をして英語も早いうちにマスターした。慶應を中退したことも、編入2度経て、憧れだったワシントン大学を合計4年でストレートで卒業できたことも、自分では努力あってこそだと思っている。そして、卒業した次の日から製薬会社でフルタイムで働き始めて、その翌週からはレストランでバイトも始めた。ここまで2年間の社会人生活、常に最低2つは仕事を掛け持ちしてきたし、去年の9ヶ月間はその二つに加え新聞の執筆・編集業も併せて3つの仕事を同時にしていた。

だが、こんなに頑張っても、お父さんには敵わない。数週間前には僕が、テリヤキのビジネスはやったこともないのに上手くいくわけないと文句を言ったら、そこから言い争いになった。「お前は24歳にもなって家事もしないし、いつになったら親のサポートをしてくれるんだと。」それに関しては一切反論はない。僕はまだ実家暮らしをしているし、自分の本業と副業で忙しくしているとはいえ、家では親が全てやってくれることに甘えていた。そこまでは良かったが、その後に「仕事も楽だけして、いつになったら頑張り始めるんだ。大学院にも行かないで。今親のサポートがあって行けないなら、いつ行けるんだ」と言われた。

正直かなりムカついた。というのも、僕は自分なりに出来る限りの努力はしていたつもりだったから。同僚で副業をしている人はほぼいないし、外に出ればみんなに頑張り屋さんと言われるのに、家では相手が相手なため、全く公平な評価がされない。でも僕が大学院に行く気を見せないことには、お父さんだけでなく、お母さんも心配していたので、半分親への反骨心で大学院に出願した。出したのはワシントン大学MBAプログラム。仕事をフルタイムでしながらのプログラムであるため、3年をかけて卒業をすることになる。書類は通り、最終面接は来月控えている。半分は親への反骨心だが、もう半分は自分が行きたいからだ。これはもし受かったらまた詳しく書くが、製薬会社での自分のキャリアを考えた時に、僕が一番輝けるポジションはInternational Branch Managerみたいなポジションだと思う。国際的なバックグラウンドを持っているし、言語も複数話せ、MBAまで取ればマネージャーコースに容易に進める。会社の現在のマネージャーや同僚もそれが良いと後押ししてくれていることもあり、MBA取得はいつかはしようと思っていた。

話しを戻すと、MBAに出願してからは確かに親の気は少しは晴れたようだ。言い争いがあってからは、皿洗いや庭の掃除・手入れなど積極的にするようにもなった。だが、今でさえフルタイムの製薬会社+パートタイムの新聞の執筆・編集業をこなしているだけで忙しいのに、これに加えテリヤキ屋さんの経営、そして受かったらMBAと全てを同時進行できるか正直不安だ。

 

~テリヤキ屋さんでの僕の役割~

今週オーナーシップが変わったばかりなので、まだ僕も全てを把握しているわけではないが、今わかっている範囲内でのことを書ければと思う。まず、場所は家から車で北西に20分ほどのMukilteoという街にあり、すぐ近くにボーイングがあるため、昼間は近くのサラリーマンで混む。このお店は個人経営で20年続いており、グーグルでの点数は4.4とかなり高評価。味も悪くなく、基本はテイクアウトの人が多いが、イートインスペースも20席ほどある。営業時間は月~金の朝9時半から午後7時半まで10時間x5日。

これまでは基本的に現在70歳を超えた前オーナー夫妻と、朝からフルでいてくれるおじさんがキッチンに一人、そして午後2時以降に入ってくれるおばさんがもう一人キッチンで回せていたらしい。だが、歳を取ってからは、今年45歳になる娘さんがヘルプで朝からお昼過ぎまで入って、実質オーナーとして経営を回した。

今回売却に至った理由は、オーナー夫妻の体調が悪くなってきたこと。娘さんも9歳と13歳の子供がいるので、テリヤキ屋さんにオールインすることはできず、少し価格を落としてお店を売った。売り上げは平均一日1400ドル程度ということで、規模としては小さめだが、単価が14ドルほどなので、大体一日10時間で100オーダーが入る計算だ。

僕は木金は会社が休みのため、お店に顔を出して実際にキャッシャーとして働いてみたが、正直この先の経営が不安にはなった。というのも、お父さんはサンドイッチ屋さんをメインでやる予定のため、フルで入れるのは月火のみ、そしてお母さんが月~金までフルでいるプラン。今は夏休みということで大学生のいとこがサポートで入ってくれているが、9月からは彼女もいなくなる。となると、水木金は、お母さんと既にいるキッチン二人以外は人がいない。

お父さんのプランとしてはここに僕が入って欲しいとのことだが、正直言うと飛んだ迷惑でしかない。日月火水はフルタイムで10時間ずつ働いていて、休日である木金土は専ら新聞関連のことか、友達と遊んでいるわけだが、その木金をテリヤキ10時間ずつはしんどいにも程がある。妥協案としてせめて忙しいランチタイムだけ手伝ってほしいとのことだが、毎週入れる保証もなければ、学校が始まったら課題や試験勉強でそれどころではないだろう。新聞の仕事は好きで続けているが、この状況になると近々辞めざるを得ないだろう。

となると代案となるのは、外部から人を採用すること。それが無難なアイディアだし、きっとこのビジネスを回そうと思ったら、それしか道はないと考えている。だが、人を雇うことは難しいし高くもある。そこまで大きいビジネスでもないため、利益の大半が人件費に消えていくことになるだろう。それに、オーナー不在はまずいため、僕と親のどちらかの誰かで、必ず営業時間週50時間をカバーしなければならない。これが半年だけなら持つかもだが、長期的にどうなるかは不安でしかない。

現時点でも、既に妹の送り迎えなどの負担が僕に流されているのに、もし親の片方が過労で倒れたら一体どうなるのだろう。ということで万が一に備えて、若くて一番倒れないであろう僕に、お店の経営面のことは全て把握してほしいのだと言う。毎週木金お店に出るのが無理でも、雇用や給料・固定費の支払い、料金設定、メニュー変更、そしてお店関連の様々な権限などは名義はお母さんながら、僕にやってほしいらしい。

 

~メリット・デメリット~

ポジティブに捉えると、マネージメントに興味がある僕にとっては、これ以上ない練習環境となる。これを試してみたい、と思いついたら、誰の意見も仰がずに自分で実際に試すことができる。そして、雇用や固定費・売り上げ・税後のオーナーの手取りなどのリアルな数字を扱える機会は他にそうそうない。経験がないと何を学べばいいかもわからなくなるが、実例が目の前にあることで、このことについてもっと知りたい、と具体的な学習意欲も出てくることだろう。また、飲食経営をすると食材などかなりの物が経費で落ちる。仕入れの時点で免税で、様々な支払いなども税前で計算されるため、それこそ利益がゼロでも、これまでの生活より支出は減る。というのも、お店で余る食材だけで家族4人が食べる分以上は賄えるためだ。

ネガティブな面ではあげればキリがない。お父さんが倒れたら、お店のことだけでなく、家関連のことも全て責任は僕に降りかかってくる。固定費・家賃は払い続けなければならない。ショックを受ける間もなく、その後の役所処理などを全て担当するのに加え、仕事も副業も一旦全てストップせざるを得ないだろう。

そもそも飲食業の経験も、経営の経験もないのに、オールインせずに、片手間で回せるほどビジネスは簡単なのだろうか? 僕だけでなく、前オーナー初め、お父さん以外の周り全員がこの先を不安視している。お父さんは体力お化けで、これまでも常人がやらないことをしてきた経験があるから自信しかないと言うが、似たような人だったおじいちゃん(お父さんのお父さん)は僕が生まれる前に、確か50代か60代序盤で倒れて急死している。不吉なことは言いたくないが、正直お父さんにいつ同じことが起こってもおかしくないと思う。

常々、遺産は残さなくていい代わりに、あまり負担は残さないでほしい、と少し自分勝手なことを親に伝えてきたが、それは心の底からの願いだ。僕はお父さんがアマゾンを辞めた時に、家も売って、親二人とも韓国か日本で第二の人生をゆっくり過ごしてほしいと望んでいた。だが、お父さんのアメリカで飲食ビジネスしたいという夢を叶えるために今に至る。ちなみにお母さんは海外生活のストレスでこれまで何度も身体に異常が出たし、本当は僕の提言通り、言葉の通じる国で楽に暮らしたいと言っている。それでも、せっかくの人生いろんなことにチャレンジしたいという気持ちもあるようで、最近では僕にそんなにネガティブにならないでと諭してくるほどだ。

 

~親への思い~

僕は親が今まで3カ国を跨いで、トップクラスの教育を受けさせてくれたこと、グローバルな人間に育ててくれたこと、そして将来への選択肢を増やしてくれたことにとても感謝している。常にやりたいようにやらせてくれたし、自分の決断は全て尊重してくれた。でも、親のことが好きかどうか聞かれたら、お母さんのことは大好きだが、お父さんに対する気持ちはそこまでない。

もちろん体力もあれば、尋常な量の努力をできるお父さんを見て、学べたことも多いし、自分も成長できてきた部分はある。だけど、自分の価値観を他人に押し付けることだけは大嫌いだ。最たる被害者がお母さんで、もう50も過ぎて、言語も思うように通じない場所で、週50時間労働を強いるのは間違っている。だから僕は常にこのテリヤキビジネスにも反対してきたし、始まった今でもまだその考えは変わらない。僕としては、誰かが倒れてからでは遅いわけだから、早めに忠告をしているつもりなのだが、お父さんは全てうまくいくと根拠のない自信を持っている。それがすごく嫌いだ。そんなに自信があるのなら、人を雇うなりして根拠を見せて説得してみろよと思う。実際心配しているのは僕だけではないのだから。でも当のお母さんはそんなに心配していないどころか、かなり楽しみにしている。

確かに僕は心配性ではある方だし、家族のシアトル移住が決まった時も、妹が車で事故を起こした時も、一人オーバーリアクションをしていた。実際後になって振り返るとなんだかんだ大したことはなかったが、この性格はなかなか変えられるものではない。僕は人生でどんな決断を下す時も、ある程度根拠を持った上で決めてきた。そしてどの決断を下す時も、自分以外の人には迷惑をかけないようにしてきた。もちろん責任もない立場であるからできたことではあるが、もし将来結婚することがあったら、僕はお父さんのような決断の下し方はしたくない。

 

~この夏のプラン~

結果オーライでこのテリヤキビジネスがうまくいったとしても、僕が手の平を返して喜ぶことはないだろう。一年で10万ドル、20万ドルという額を稼げたとしても。だが、自分の意見はどうであれ、始まってしまったことは確かだ。元には戻せない。今は嫌々と不安の気持ちの方が強いが、今まで育ててくれた親への恩返しだと思って、自分ができることはしてあげようとは思う。

自分のソーシャルライフは当分捨てることにはなるが、全てに真摯に向き合って頑張れば、きっと自分にとって大きな財産となることだろう。優先順位としては、フルタイムの製薬会社>>受かったらMBA>テリヤキ>>新聞となるため、もし大学院への合格が決まれば、新聞の仕事は辞めることになると思う。そして、会社の有給休暇は6週間分ほどあるが、今年はきっと9月あたりにまとめて使ってテリヤキのビジネスに専念する期間になることだろう。

今年は上半期一切休みを取らずに本業も副業も頑張ってきたし、趣味ではマラソンもこなした。体力はかなりついてきたが、自分の仕事に加え、妹の送り迎え、テリヤキビジネスがかなりの割合を占めてきたことで疲れが溜まってきた。今日はテリヤキを早めに出て昼寝をしたがまだ疲れはかなり残る。明日は久しぶりに何も予定を入れていない一日になるが、執筆も溜まっているし、飲食業のマネージャーとして取らないといけない資格もいくつかあるため、それに時間を割くことになるだろう。

充実しているなと思うこともあるが、本当はもう少し楽に暮らしてみたい。フルタイムの仕事だけやっている人を見て羨ましいと思うことも多々ある。自分もそういう道を選ぶことはできただろうに、努力量がえげつない人が父親だったせいもあり、自分の中でスタンダードが狂ってしまった。今は若さゆえまだ体力があるからいいが、どこかでタイミングを見て自分に合うペースを探してみたい。

かく色々愚痴は書いたが、僕はきっと心のどこかではお父さんを尊敬しているし、親として好きな気持ちはあるのだと思う。だから見捨てたいとも思わないし、頑張って助けたいという気持ちはある。本音を言えば、僕が頑張っていることも認めてほしいが、それは望みすぎなのかもしれない。アップデートが多い記事とはなったが、今まで以上に成長していきたい心持ちはある! ということで次回の記事に乞うご期待!